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いちかわ散歩タイトル
市川から国府台へ 市川から国府台へ
国府台、真間、国分一帯の高台は下総台地の
一部で市川でも樹木の緑が濃いところ。
その台地の周辺を歩いてみよう。
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月刊いちかわのエピック
まず市川のまち、国道に沿って、三本松、
青面金剛碑、神社、緑地


  JR市川駅を北口におりてバスターミナルになっている駅前広場をすぎれば市川市を東西につらぬく幹線道路の国道14号。その道筋はおそらく古代から続く古道ルートであろう。近世には水戸と佐倉を結ぶ主要道で水戸佐倉道と呼んだ。右方向、つまり八幡方向にむかうと三本松の碑がある。この道脇に松の古木があって、明治のはじめ習志野に軍の演習にむかう明治天皇がその樹形をながめて「見事な松よ」と嘆賞したという言い伝えがある。残念ながら道の拡幅などのためその松自体はなくなってしまったが道の中央分離帯に記念碑が建っている。
  国道を向こう側に渡ってしばらく歩き消防署のさきの道端に青面金剛碑がある。これは見ざる・言わざる・聞かざるの三猿を刻んだ庚申塔でもあり、かつての市川村の東のはずれがこの地点だったらしいことを思わせる民俗資料である。
 さらに歩くと道沿いには春日、胡録、諏訪と神社があり、その先は八幡の葛飾八幡宮になる。また諏訪神社に接してクロマツが群生する平田緑地があり保存の手立てが講じられているが、緑地の一部は現在、国土交通省がすすめる東京外郭環状道路計画ルート上にあり、その保存が危ぶまれている。
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真間川に沿って文学の道・名妓の碑

  さて国道14号を引き返し、春日神社の脇の道を北の方向に行くとまもなく京成線の踏切に出、さらに行くと国府台女子学院になる。
その正門前に「相田みつをギャラリーサロン・ド・グランパ」がある。そして五又路を渡ると遊歩道形式の桜土手公園になる。サクラ並木の間に市川ゆかりの文学者たちの事跡を記した掲示板がたちならび、それを読みながら進むと真間川に出、川をへだてて真間小学校を右に見て進むと真間大門通りに出る。その手前にあるのが珍しい「名妓の碑」。昭和10年代まで市川の中心は市川・真間のあたりで花柳の巷でもあった。当時の名妓の名を記したのがこの碑でちょっとなまめかしい碑である。
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真間大門通りから弘法寺へ

  真間大門通りから真間山弘法寺に向かうにはJR市川駅から国道14号に出て左に100メートルほど行くと市川公民館がありその脇が参道入口で、この道が大門通りである。約1キロメートルの参道の両側には随所に万葉集の歌を墨痕もすずやかに記した掲示がならぶ。これは有志の提案と市内の書家の協力によって作製されたもの。
そこでこの通りは「万葉の道」とも呼ばれるようになった。道の突き当たりが弘法寺の石段である。
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継橋と手児奈霊堂

  「足の音せず行かむ駒もが 葛飾の真間の継橋やまずかよはむ」と万葉集に歌われている橋は八つ橋のように何枚かの板を継いだ橋という。その橋にちなんだ朱塗りの小橋がこの通りにある。かたわらに日蓮聖人の歌碑もある。ところで真間といえば思い出されるのが薄倖の美女、手児奈のこと。万葉の時代にすでに伝説となっていたのだから随分と昔のことになる。その手児奈をまつった社が手児奈霊堂で大門通りのつきあたりの右手前になる。何代も前の真間山弘法寺(ぐほうじ)の住職の前にいにしえの手児奈がこつ然と現れ、守護神となることを伝え、以来弘法寺が堂を守ってきたという由来がある。いまは産土神として安産・厄よけ祈願の信仰をあつめている。霊堂横にはスイレンが生い茂る池があり、かつての真間の入り江の名残りをとどめている。
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手児奈太鼓・ほおずき市・灯籠流し

  女性だけがメンバーとなっている和太鼓グループ「手児奈太鼓」20数人の打ち出す響きは春秋二季の例祭で聴くことができる。7月中旬には霊堂境内いっぱいにほおずきの鉢植えがならぶほおずき市が開かれ、その宵には真間川で灯籠流しも行われ、多くの人でにぎわう。
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亀井院・白秋・真間の三碑

  霊堂の横に出たところに亀井院がある。かつてこの寺の井戸にめでたい亀が出現したという言い伝えがあり寺名になった。院は江戸時代、幕府の作事奉行だった鈴木長頼が修築したという。かつて大正のはじめ詩人の北原白秋が半年ほどこの寺の離れに住まっていたことがある。亀井院、手児奈霊堂入口、継橋際にある「真間の井」、
「手児奈の奥津城」、「継橋」は真間の三碑として古来著名である。
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鈴近江翁碑

  亀井院の右脇、なだらかな坂道の右にある墓所が鈴木長頼家の墓所で市川市指定文化財となっている。長頼は真間山弘法寺の石段を寄進したとされている。この坂道を左に登ると国府台の上、千葉商科大学キャンパスに出る。右にすすめば国分方面につづく道となる。
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千葉商科大学

  かつてこの一帯は旧陸軍の兵営と練兵場だったが終戦後は学校や公共用地などに転用された。千葉商科大学のあるあたりは西練兵場だった。ちなみに東練兵場というのは現在の中国分の一帯である。
  大学構内は植栽も手入れが行き届いていて気持ちがよい。クスノキの並木は初夏の芽吹きがうつくしい。大学と市川市スポーツセンターとの間のサクラ並木は4月はじめには完全に花のトンネルになる。この道を西に道なりにたどれば県道・松戸線に出る。
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国府総社跡と能村登四郎句碑
 
  市川市スポーツセンター構内のケヤキの大木のふもとに下総総社跡という碑がある。古代日本は66か国に分かれ当地は下総国でその国庁の所在地がスポーツセンター
の場所にあったといわれる。もとこの場所には六所神社があったのだが明治になって旧陸軍の駐屯にともない神社は須和田に移ったという経緯がある。とにかく奈良時代の下総の国庁がこの場所にあったのだ。
陸上競技場スタンド近くにいかにもこの場所にふさわしい俳人・能村登四郎の句碑がある。
「春ひとり 槍なげて槍に 歩み寄る」。登四郎の代表句である。
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国分寺・尼寺

  仏教渡来から2世紀ほどたった奈良時代(741年)に諸国に国分僧寺・尼寺の設置がきまり、下総国では今の市川市国分に寺院が創建された。この地が下総国の枢要の地だったことが想像できる。JR市川駅から国分操車場行きのバスを国分停留所でおり左手に歩いて5分ほどのところに国分寺がある。この寺のあつた所に国分僧寺の本堂、講堂があったことが発掘調査でわかった。そして尼寺は国分寺の北西約500メートルのところにあったこともわかっていて今そこは国分尼寺公園になっている。一般に僧寺には僧20人を置き、俸禄として水田10町、封戸50戸が、尼寺には尼10人、水田10町が給された。ここの下総国分寺の伽藍配置は法隆寺式で珍しい形式になっていた。国分寺は諸国の国庁である国府の所在地に必ずしも置かれたわけではないが、ここ下総国では国府が現・国府台、国分寺が現・国分と近接していることも特徴的といえる。現・国分寺の仁王門は昭和53年に古式にもとづいて建造された優美な門である。
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真間山弘法寺

  石段を登ると仁王門があり、脇には「まさをなる空からしだれざくらかな」の富安風生の句碑。境内に進み、右手に「南総里見八犬伝」のヒロインにちなんだしだれ桜の古樹、伏姫桜がある。市川一の桜の名樹である。右手奥には明治の昔、当地におかれた陸軍教導団生徒だった富樫八十二の殉職碑が、さらに右手奥の墓地の一角には教導団輜重隊生徒5名の合葬墓がある。明治期の当地の歴史を思いおこさせる資料である。
  境内には鐘楼があり大晦日には百八つの鐘声がひびきわたる。
  数年前に落成した祖師堂はチタン葺きの屋根をもつ流麗な建物。また清潔なトイレットが設置してあるのも散策者にはうれしい心くばりである。俳句愛好家のために投句箱が設けられているからこの場で自信作を投じるのもいい。
  境内の左に亭がある。「遍覧亭」で、そこから江戸川・東京があまねく見渡すことができる。この寺は奈良時代からの古刹だが中山法華経寺の開祖・日常上人の義子、日頂上人によって日蓮宗寺となった。隣の真間山幼稚園の入口には八重咲きで薄緑色の鬱金桜がある。
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切り通し道と旧木内邸

  幼稚園の左に細い道がありそこを抜けていくとコンクリート擁壁の切り通し道になり、その左側に木内邸があった。木内重四郎は三菱・岩崎財閥の番頭ともいわれた人で千葉県出身。真間・国府台の高台からの眺めを好んでここに別邸を建てた。建物は先年解体され跡地から市川では少ない周囲に環壕をもつ弥生時代の住居遺構が発見された。切り通し道を下ると県道・松戸街道である。
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里見公園へ

  松戸街道を右に進んで和洋女子大、国府台高校、東京医科歯科大を脇に見て国立病院の前を左折すると里見公園になる。この道にはサクラが多かったのだが近年樹齢が古くなっていささか寂しくなっているのは残念だ。
  里見公園へはJR市川駅からのバスもあり、京成国府台駅からもバスが利用できる。国府台駅から江戸川堤を上流にむかって歩くのもよい。江戸川にかかる京成線鉄橋の位置は江戸時代の小岩・市川関所と渡しのあったところ。町人の男は行徳から船で江戸に出られたが武士と婦人はこの関で通行手形を見せて通行しなければならなかった。
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川岸のクルミ

  堤を歩いて国府台丘陵の下の道を行くと堤防護岸のブロックの隙間からオニクルミの樹が何本も生えているのに気がつく。はるか彼方の栃木あたりの山あいから流れてきた実が芽生えたのだろう。宮沢賢治にならってイギリス海岸と呼びたくなってくる。10月にはたわわに実るのだが意外に気がつかれていないよう。
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里見公園と辻切り

  里見公園は洋式庭園と奥の自然式公園とからなっている。洋式公園には噴水池があり久保田俶通作のブロンズ像がある。そのかたわらにもと対岸の小岩にあった詩人・北原白秋の旧居「紫烟草舎」が移築されている。夜泣き石も本来の位置に移設してある。
  子供たちに人気があるのはどちらかというと奥の自然式公園の方らしい。池にはザリガニがいるし春先にはカエルの卵があるからだ。
  春といえばサクラだ。この時期だけ夜間開放しているから夜桜が楽しめるからうれしい。梅園もある。茶店風売店もあるから飲みもの、食べものには不自由しない。この公園の歴史は意外に古く、大正末年に開かれ、「八景園」と名づけて近郊の人を集めたが昭和初頭の不況や戦争などのため営業としての公園はまもなくなくなった。
昭和30年代はじめに国有地部分の払い下げを受けて市川市が新しく里見公園として整備したものである。正門のほかに江戸川寄りの北西の隅にも出入り口があり、その急な坂道の途中にワラでつくった大蛇が樹にかけられている。国府台の村に悪疫などが入らないように毎年1月20日にここからほど近い天満宮で土地の人が作って設置する「辻切り」とよぶ大切な民俗行事である。
  里見公園の隣は総寧寺である。もと江戸川上流の関宿にあった寺といい、その地の水害を避けて国府台に移ってきたものという。市川ではめずらしい曹洞宗の古刹である。10万石の大名の格式をもって幕府に遇せられていたという。だから門前に下馬と刻まれた石標があるのもうなずける。境内の五輪の塔は伝によれば小笠原貞頼夫妻の墓といわれているが、実際は関宿城主小笠原政信の墓という。また梅の古木がある。本来梅は香りを楽しむものという説を信奉する人には大がかりな梅園よりここの古木のほうがよいかもしれない。
春のおぼろ夜の探梅も一興だろう。最近鐘楼が改築された。
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須和田公園

  真間山弘法寺の東端の崖上から東をのぞむと八幡方面まで見晴るかすことができる。手前の低地の向こうの台地は須和田台地で市川市立二中や須和田公園がある。しかし明治の末まで真間の台地と須和田の台地はひとつづきだった。明治44年からはじまった市川中央部の耕地整理事業で菅野ほかの低地の盛り土のためにこの高台の土を掘りとったという事情がある。
自然地形自体もずいぶん変化しているのである。須和田公園には須和田式土器の名のもとになった遺跡があったことで全国に知られている。「須和田に別れる詩」碑は昭和3年から12年まで市川に住んだ中国の歴史家・文学者として知られる郭沫若氏の詩碑である。昭和30年、氏が中国学術文化使節団の団長として来日した際、市川に住んだ在りし日を偲んで書いた詩がこの詩である。
 
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