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いちかわ散歩タイトル
北国分から矢切へ ガイドマップへ
JR本八幡駅を降りて、八幡から菅野へ。
散歩の達人・永井荷風も歩いたこの道を
たどっていけば宮久保・曽谷へ。
ふ」〜ん、いつも見馴れた風景だけど、
意外に知らない歴史があったんだナァ。
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八幡不知森(やわたしらずのもり)

 JR本八幡駅北口から国道14号を右に200メートルほど行くと、石柵に囲まれた小さな森がある。ここ八幡不知森は〈 薮知らず 〉として全国に知られた名所の一つだ。この森に入ると祟られるとか、二度と出てこられないと言い伝えられた往時の面影はないが、昔から多くの話が伝えられている。「水戸黄門は、平貞盛の〈 この地に入ると祟りがある 〉といった故事を〈馬鹿げた話〉と薮に入った。すると白髪の老人が現われて、黄門さんを叱った。ご老公の印籠も役たたず」という水戸ご老公もびっくりの話は有名。また、この地が行徳の入会地で、八幡の住民はみだりに入ることが許されず、「八幡知らず」が「薮知らず」になったともいわれている。
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葛飾八幡宮

 八幡は寛平年間(889〜898)、宇多天皇の勅願により、下総国総鎮守として京都石清水八幡宮を勧請した葛飾八幡宮を中心に発展した町だ。この八幡宮は武神として、頼朝、道灌、家康など武人の崇敬を集めた。江戸時代には天台宗・上野寛永寺の末寺・八幡山法漸寺が別当寺として葛飾八幡宮を管理したが、明治初めの廃仏毀釈によって法漸寺は廃寺となった。社殿前の鐘楼や山門に往時をしのぶことができるが、この山門は随神門(市指定文化財・現在解体修理中)と呼ばれるようになり狩衣姿の右大臣、左大臣像が安置されている。現在、随神門は保存修理中で、平成14年8月竣工予定。かつて法漸寺山門に安置されていた仁王像と大黒天像は行徳の徳願寺に移され、阿弥陀如来像・毘沙門天像・不動明王像・閻魔像・脱衣婆像の5体は、白井市来迎寺に移されて、現在、白井市文化財に指定されている。
 社殿右側には、国の天然記念物に指定された「千本公孫樹」がそびえている。高さ22メートルにおよぶ大樹で、白蛇が棲むと古くから言い伝えられている。
 境内東側、樹々の緑につつまれた八幡会館で、ちょっと一息、ティータイムもいい。
 また、境内には市川特産のなしの栽培を広めた川上善六翁碑、戦後一世を風靡した歌手・岡晴夫記念碑などもあり、京成踏切際には明治45年から大正8年にかけて行われた耕地整理の記念碑「改耕碑」がある。
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戊辰戦争、官軍兵士の墓がある浅間山東昌寺

 市役所前を過ぎ200メートルほど千葉方向に歩くと、曹洞宗の寺院・東昌寺がある。この寺は天正年間(1573〜1592)太誉和尚の創建で、当初八幡6丁目の冨貴島小学校付近にあったが、寛永元年(1624)に現在地に移された。墓地には、慶応4年(1868)に起こった戊辰戦争のため八幡で戦死した官軍兵士3名を葬った2基の墓石がある。このとき、旧幕府軍の大鳥圭介、土方歳三らの軍議が市川で開かれ、当地をはじめ市川がこの戦いで大きな戦火を受けたことがうかがえる。
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山王山不動院

 京成八幡駅から中央通りを菅野方面に向かって約500メートル右側。真言宗豊山派不動院の本尊、不動明王は、天慶2年(939)、平将門平定のため寛朝僧正が、成田山の明王と同木同作のものをこの地に安置したと伝えられている。また、天正18年(1590)家康の関東移封のおり、豊臣秀吉はこの本尊に祈念し、のち文禄3年(1594)秀頼誕生に際して秀吉より寺領を賜ったと伝わるが、安政2年(1858)の火災で多くの寺宝や記録などが消失したため詳細は不明。また、境内の一隅に美しい彫りの如意輪観音像と地蔵、大日如来、庚申など10余体の石仏が並んでいる。
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白幡天神社

 菅野の住宅街の一角にあるこの神社は、もと白幡神社といい、祭神は武内宿禰(たけのうちのすくね)。治承4年(1180)、源頼朝が安房の国に逃れて旗揚げした際、この地に白幡を揚げたことにまつわると伝えられている。一説には太田道灌の建立との説もある。明治4年に菅原道真を合祀して「天」の字が加わり白幡天神社の名称になった。本社の扁額「白幡神社」は勝海舟が書いたもの。明治12年に寄進された日本画家・柴田是真の梅の枝とつるべが描かれた句額は市指定文化財。毎年2月20日に行われる湯の花神事は、祭神武内宿禰が、身に覚えのない罪に問われたとき、熱湯に手を入れたが火傷をせずに無罪を明かしたという探湯(くかたち)の故事に由来するとされる。
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御代の院

 時代のヒーロー平将門にまつわる伝説は市内にも数多い。白幡天神社にほど近い京成リブレ横にある御代の院もその一つだ。伝えによると、天慶の乱(天慶3年・940)のとき、京都の菅野氏は将門平定の命を受け妻と共に関東に下り、この地に居を構えた。妻の御代の前を将門の出城といわれる大野城に住まわせた。彼女は女スパイとして内情を探索して夫に知らせたことから大野の落城を早め、将門調伏に功績をたてたといわれている。
 その後、菅野夫妻は仏門に入り、将門と戦で亡くなった将兵たちの後生を弔いながら世を去った。里人は夫妻の気持ちを偲び、ここに墓標を建てて祀ったのが御代の院だ。風邪のときには御代の院から借りた茶碗で薬湯を飲むとご利益があるといい、回復すると新しいものを添えて返す風習がある。
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平田の聖徳太子堂

 国道14号沿いの市川郵便局を西に50メートルほど行き、右に折れると京成線側に聖徳太子堂がある。ここの聖徳太子像(石像)は、萬治元年(1658)の建立で、千葉県内では最古の聖徳太子供養塔といわれている。江戸時代の「五街道分間延絵図」(文化3年・1806)の水戸街道の部分に堂宇の形で描かれており、太子堂の建物があったことが、現在の堂は中山の陽雲寺の発願によって近年再建されたもの。
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宮久保山高円寺

 法華経寺二世日高上人の開山と伝わる高円寺の境内に咲く藤は、花穂が1メートルもある見事なもので、「長寿藤」「野田藤」として知られている。毎年5月初旬に藤まつりが行われる。
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宮久保の鎮守様・白幡神社
 
 宮久保の高台にある白幡神社は、スダジイ、栗、松の木などに囲まれた静かな一角だ。もと八幡神社で創建は文明18年(1486)以前といわれている。かつては宮久保6丁目の高台にあったが、大正3年に八幡神社、厳島神社、諏訪社、天満神社などを合祀し、大正7年に現在地に移された。
 境内の奥にある諏訪社は、昔からこの社にお詣りすると、子宝、婦人病にご利益があると多くの人の信仰を集め、今も病気平癒を願って、たくさんのカメが供えられている。参道に「袖掛松之碑」と書かれた碑がある。ここにはかつて、片袖をちぎって松に掛けると災難除けになるといわれた袖掛の松があったが、昭和23年県道拡幅のために伐採され、切り株だけが残っている。この松の木の伐採中一人の幼女が亡くなり、のちにそれを悼んだ地元の人の手によって、この碑が建てられた。
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病の婦人を村民が助けた如意山所願寺

 寛文6年(1666)、日心上人開基の日蓮宗寺院・所願寺には、「昔、病を得て都を離れた婦人が、宮久保の美女ヶ崎(みめがさき)に漂着し、村人が助けて住まわせたのが寺の起こり」と伝えられている。毎年、土用丑の日に、頭にほうろくをのせて暑気払いをする「ほうろく灸加持」が行われる。
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千葉一族の安泰を祈った・長谷山安国寺

 文応元年(1260)、曽谷城主教信が日蓮に帰依して、館のかたわらに建立した。教信は出家して日蓮から法蓮阿闇梨日礼の法号を授けられ、寺中に、千葉氏の守り本尊である妙見菩薩を祀った妙見堂を建てて千葉一族の安泰を祈った。本堂に向かって右手の小高いところに、妙見堂と鬼子母神堂が建っている。後に教信は大野村に移って法蓮寺を建立する。

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曽谷氏の築城遺構・曽谷城跡

 市立三中の桜並木をぬけ、学校の裏を左にしばらく歩いて、細い道を上りつめた百合台の台地に建つ農家の屋敷内が曽谷城跡だ。
 曽谷城跡は「曽谷殿屋敷」といわれた地域で、わずかに土塁と空堀の一部が残っている。
 曽谷城主は国分胤鎮が同族重胤に曽谷の近在の広い土地を与え、重胤が城主となった。この孫が安国寺開山の教信だ。この城内には「曽谷のからす石」と呼ぶ、青色の石に墨で描いたような烏の形が現われた石があり、歴代城主が珍重した。曽谷氏が滅んだ後も城中に残されていたが、江戸時代の書家松下雨石はこの石に心を魅かれ、号を烏石(うせき)に改め、この石を密かに江戸に運び秘蔵したといわれる。現在、大田区大森北の磐井神社に保管されている。
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日本一広い馬蹄形貝塚・曽谷貝塚

 曽谷バス停を背に春日神社の横を歩いて行くと、広々した畑の中に、縄文後期(約4〜3000年前)の貝塚が望める。この辺りの畑の土には、白い貝片がたくさん混ざっていて、縄文の人々と共に今も暮らし続けているよう気がしてくる。
 明治からの発掘調査で、住居址37軒のほか、人骨・犬の骨・土製品などが出土した貝塚は、東西210メートル、南北240メートルの大きさで、馬蹄形貝塚としては日本一の広さで、国史跡に指定されている。
 毎年10月初旬に「心ふれあう歴史のまち」をテーマに、地元の4自治会が中心となって曽谷縄文まつりが開かれ、古代食の試食会や火起こし体験、出土土器の展示などが行われている。
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百合姫伝説が伝わる・池端弁財天

 曽谷貝塚から300メートルほど行くと、弁天池公園にでる。池の中に池端弁財天の祠が浮かぶ、静かな公園(曽谷2]33)だ。
 \ 今から550年ほど昔(室町時代)のことです。その頃、下総、上総の国をおさめていた千葉氏の一族が、二つに別れて戦争をはじめました。関東地方をおさめていた上杉氏は、これを鎮めようとして、片方に加勢するために兵を連れて曽谷にやってきました。千葉氏の一族である百合姫の父・曽谷城の城主・曽谷直繁は、上杉の敵方にまわってしまいました。ところが百合姫のおじさんにあたる人は、上杉方になって戦いました。
 百合姫は心をいためましたが、父の直繁が戦いに敗れて死んだことを知ると、「どうして、親子、兄弟、親戚が戦争をしなければならないのでしょう。この世の中は真っ暗です。とても生きてはいられません」と、この地まで落ち延びこの弁天池に身を投げました。
 その後、百合台には一面に白百合が咲き、まるで百合姫を弔っているかのようだったといわれています。(『市川のむかし話』より)
 この池端弁財天は百合姫を弔って、のちに建てられたものだと伝えられている。
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