2019年4

郷里の勝浦から東京に出てきた時の事を思いだします。父は漁師でしたが、私は初の漁で海に出てあえなく船酔いでギブアップ。東京に出て新しい生活をしていると、折にふれて、父の事や母の事を思い出したものです。
ライオンの工場で石鹸を作りながら、何か自分に合う仕事と思っていたのが地域に土地に根付いた情報を提供する、地域情報誌の仕事。
サラリーマンの町、新橋で(思えばガード下なども今より活気があったような記憶も)雑誌を創刊し、そこで経験を編集の手法を学んでから市川へ。
当初は市川と船橋どちらでタウン誌を創刊しようか迷いました。数日駅前で、道行く二つの町の人々を眺めながら市川に根を張る事になりました。太陽新聞を端緒に月刊いちかわを創刊してから、そろそろ半世紀。こんなに長くこの町と付き合い、雑誌を続けることになるとは。
春めく季節になり、新しい生活を始める学生達を眺めていると、今でも昨日のようにその時の事を思い出します。今街を行く皆さん。皆さんは50年後、一体どんな事をしているのでしょうか。 (吉清)

街歩きが好きです。知っている土地、知らない土地、歴史がある街無い街を問わず、どこでも楽しい。自宅で地図を見ながらルートを検討し、実際の街に着いたら裏道を探したり、カッコいい建物を見て感動したり、空き家を見てしんみりしたり。人の営みが生み出す、濃密な情報量を辿りながら街歩きをしていると、さっぱり先に進みません。(太郎)

 

 

 

2019年3

三月。痛ましい事件の報道が続いた。テレビをつける度、報道が重ねられる度、日本の子供達の未来について考えさせられる。
 日本経済は戦後最長の景気回復が続いているという。来年には東京オリンピックが迫る。しかしその喧騒の中で見落とされているものもあるのではないか。日本人一人ひとりが、当たり前に成長し、人と人との繋がりの中で当たり前の幸せを担保される世になる事を切願する。
 ところで、隣国韓国に南北統一の兆しが見えてきた。今の若者は既に言葉でしか知らない冷戦℃梠繧フ対立構造の痕跡がまた一つ過去の物になるのだろうか。一方で仲介者となるアメリカは、メキシコとの間に『壁』を建設している。この是非を巡って連邦政府機関の一部が閉鎖、野党と与党の対立が解消されず、大統領は非常事態宣言を出すなど、混乱が続く。
 解決すべき価値観の相違や経済格差、難問は多いが、粘り強い対話によって、各国がより良い道へを選択する事が望まれている。
 日本航空が羽田空港にパワーアシスト装置を導入するという。腰に装着するこの装置は人間の動きをサポート、力仕事が大幅に楽になるとの事だ。これ以外にも、運送や介護など様々な用途に応用が構想されている。正に未来的な技術。1970年の大阪万博で披露されたリニアモーターカー路線も工事が始まった。とは言ってもこちらは、実に生生しい現実的な問題で遅延している。技術の面で見れば来るべき未来は、然るべくやってこようとしている。もちろん我々がそれらに追いついてゆければ。         (吉清)

実家に帰ると、新しい猫が。母は以前の猫が亡くなり、嘆き悲しんでいるのかと思えば、それはそれと割り切っているようだった。名前はフィリックス安直である。以前の猫は黒猫でルドルフだった。こちらも安直である。        (太郎)


 

 

2019年2

分け入っても
分け入っても
青い山
    山頭火

最近山頭火の句をよく読みます。山頭火の人生からも読み取れるように、その句は額面だけでない、深い苦悩と諦観、そして放浪の情景が垣間見えます。山頭火の句は五七五七七、または五七五になっていない句も多いのですが、その空白や余韻から想像させる豊かさ、寂しさがこの年になると心地よい。冒頭の一句にしても、山を人生と読み替えると、正に自分にも当てはまる。句の一字一字が心に染みます。結局人生の内で、山の頂まで上れる人間はごく僅か。大抵の人は限られた生の中、志半ばで朽ちるものです。別にそれが悪いという事でもない。友達で亡くなる方も、そろそろ多い年齢です。本著で書を引き受けてくださった松嶋楠城さんも逝かれました。でもまぁそれはそれ。その内また一緒に一杯やれるのかと思うと、それはそれで悪くない気がします。(吉清)
今月のインタビューでは、イラストレーターの田川秀樹さんに取材させていただいたのだが、個人的に好きな映画の製作に関わられていたと聞き話が弾んだ。弾みすぎて、家に帰ってボイレコを聞き返してみると、取材せずに、その映画の話ばかりしている馬鹿の躁っぽい声ばっかりが入っている。しょうもない話である。結局田川さんには2回も取材させていただいた。迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。(太郎)

 

 

 

2019年1

詩人の宗左近さんとの出会いは、もう20年も前の事になります。ある講演会で宗さんが東京の高幡不動から市川の町へ引越してこられたとき、好きなまちの条件として良い骨董屋が町にあることをあげられていました。そんな宗さんの言葉をいまでも思い出します。
 「高幡不動にいた時も、十日にいっぺんくらい市川の骨董店へやってきた。当時、真間川の川っぷちにあった手児奈美術店や、宝屋美術店を友人と一緒に訪ねた。そして江戸川を渡るたびに、この川のほとりに住みたいと思っていました。日本独特の歌舞伎や能。音楽、茶道といった文化がある、芸者衆もいる、下駄屋が商売として成立しているようなまち、ということです。歴史を経てきて古い何かが有機体となり、人々の気持ちが通じあっているまち。市川にはそういう雰囲気があってすきでした。
 縄文土器が好きです。
 7〜8年前から自分の部屋にも土器を置いています。間仕切り代わりにガラス棚においた土器、その向こうに江戸川があり、小岩、そのむこうに武蔵野が広がり、富士山がみえる。
    秩父の山塊、男体山も。
 山と川とそれから縄文のなかに自分がすいあげられてゆく。それから、市川には縄文の遺跡があるのもいいですね。特に縄文を中心とした市立博物館もいい」
―縄文がこのまちにはある。宗さんとの思い出が、町を歩くたびに蘇ります。(吉清)

先日首都外郭環状道路を使い、車で市川真間から行徳へ。全く近くなったものだとビックリした。地図を見ればわかるように、市川と行徳を繋いでいるのは数本の橋だけ。そこへ行くにも、昔は曲がりくねった一般道を潜り抜ける必要があったが、外環ならほぼ直進だ。さらに、今度は新行徳橋が架かり、徒歩や自転車での行き来も便利になりそう。住んでいる方に聞くと、いまだに行徳から江戸川を挟んで北はなんとなく違う街だと言う意識は強いという。街としての発展も目覚しい行徳。これからはそういう意識も徐々に変わっていくのであろうか。写真は、行徳ふれあい伝承館に展示されている旧行徳橋。これ以外にも、多数の写真資料・及び神輿、浅子周慶の仏像など貴重な資料が展示してある。行徳を知らないという方がいれば是非ここから。(太郎)